2012年11月2日金曜日

なまいきシャルロット

監督:クロード・ミレール

13歳を迎え、大人の世界にあこがれるシャルロット。
映画はシャルロットの前に現れる「大人の世界」を丁寧に描いて見せる。
更衣室にやってくる全裸の女のエロティックさ、あるいは初めてクララのステージ映像を目撃するシャルロットの描写の小気味良さ。ホールから聞こえてくるクラシック音楽につられて、そしてその曲に調子を合わせて歩くシャルロット(これが終盤のコンサートのシーンと同期してるんだね)、そしてテレビ画面越しに目が合うクララとシャルロット。

そしてシャルロットは、それらの世界と接触しては期待に胸を膨らませ、日常から脱出したいと強く願う。
しかしそれは、しょせんは思春期の、つかの間の「非日常感」に過ぎず、決して非日常そのものは彼女の前にはやってこない。
結局シャルロットとジャンはセックスをしないのだし、あるいはシャルロットがランプで殴ったジャンは死ぬわけでもなく、けろっとして電車に乗って去っていくのだし、またルルも鼻血を出して倒れたところで別に死ぬわけでもない。そして当然、シャルロットがクララの付き人になるわけでもない。

あらゆる「非日常の予感」は、「思春期」という特権的な時間の中で生起しては何事もなかったかのように消滅する。
うむ、しょせんは人生の通過点だ。

しかしそれでもこの映画は、そうした「事件の予感」を、そしてその予感に立ち会った一人の少女の無垢な感情を、しっかりと鮮やかに切り取ってみせる。
13歳になり、日常に嫌気がさし、大人の世界、ゴージャスな世界にあこがれを抱き始めて生き急ぐ少女の物語でありながら、その語りのスピードは驚くほどゆっくりで、そこにある緩やかな時間の流れをしっかりと捉えてみせるわけだ。

いさかいの後、レオ―ヌ、シャルロット、ルルが一緒になって木の下で昼寝をする様を映したショットの何たる優しさ。
あるいはシャルロットの父親とレオーヌの関係の描写も、二人が挨拶したり、手を振り合うだけで、こんなにも快い気分になってしまうのだから、つくづく映画とは不思議なものだ。
初めてシャルロットがクララと出会ったときに、ここしかないというタイミングでかかるテーマソングの素晴らしさ。

「しょせんは人生の通過点に過ぎぬ」と成熟ぶってメタに立ち回るのではなく、そうした通過点にすぎない「どうでもいい」時間の一瞬一瞬を、映画として鮮やかに、美しく切り取ってみせること。メタに立ち回るのではなく、熱狂すること。
これだ。映画とは思春期だ。

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