2012年11月13日火曜日

リリィ

監督:クロード・ミレール

この全くもって形容し難い、しかし完璧に見る者を熱狂させる、底抜けの、ミステリアスで挑発的な魅力はいったい何なのだ。
湖、渡り鳥、風、森、これらの自然を、決して審美的ではなく、シャープに、スクリーンに突きつけるように切り取ったオープニングのイメージ、そこから続く唐突なリュディヴィーヌ・サニエの裸体の描写には、そう、極上のサスペンスの香りがぷんぷんと漂う。

ミレールの2000年代以降の作品は、あの最強の傑作『ある秘密』しか見ていないが、しかしこの冒頭の切れ味鋭いイメージの数々、そして前半から中盤にかけて繰り広げられる怒涛の不信と情事の物語には、天才クロード・ミレールの、あの鮮烈さが、はっきりと刻印されている。

現代の映画らしく、怒涛のスピードで次々に生起しては消滅していってしまうイメージの数々。人々がふっと作業を止めて宙を見つめるいくつかのショット、ジュリアンが母親の部屋にやってきた時のフルショット、海辺でリリィが木の影に隠れるようにして去っていくショットのなんと忘れがたい美しさ、危うさ!

この映画全体が、クロード・ミレールの確信犯的な挑発だと思う。アントニオーニの『欲望』のように、形式と内容が一体化している(アントニオーニが『欲望』についてそう言ってたよん)。

何も解決されぬまま放り出された前半部、そして唐突に時間がジャンプして始まり、それぞれの人生を再開させた人々が、再び出会い、しかしお互いがいったい何を考えているのか全くわからず、ひたすらそのミステリアスな視線、表情、そして映画のフォルムがサスペンスを醸成し、いったいどこに向かっているのかわからないというような印象を持たせる後半部、そしてラスト。

この万華鏡のような、スキャンダラスなラストシークエンスを見るにあたって、私たちは「前半はいったい何だったのか」と思わずにはいられない。何だったのか、正確に言えば、「あれは現実だったのか」、いやもっと言おう、「現実とは何なのか」、そう思わずにはいられない。
リュディヴィーヌ・サニエがセットの上を歩く姿に、CGのイメージ映像がかぶさるとき、その快い不安は頂点に達することだろう。
映画は何かを仄めかし、そして何も解決しないまま、終わる。たぶん、この人物達もまた、何も解決することを求めぬまま、何も無かったかのように別れていくのではないか。
だが決して何も無かったなどとは言わせぬ。彼らは崖の上で、あと一歩で落ちるところまで来ていた。結果として彼らは落ちなかっただけだが、しかし彼らは間違いなく崖の上にいた。あと一歩ですべてが壊れそうなところにいた。それを事件と言わずして何と言おうか!
だからこのラストは、ハッピーな表情をした究極のビターエンドだ。


(追記)
この映画全体の構造をわかったうえで再見してみると、意外な事に後半部が平板に見えてしまう。
というより、良いカットと悪いカットが混在していて、そういう意味では冷静に自分の中でこの作品を位置づけることができたかもしれない。だが例えばこの映画をスクリーンで見たら、おそらくまた違った印象にもなるだろう。
後半部の演出の意図はとても難しいが、シモン(ジャンピエール・マリー)が別荘のセットで、トイレに行くシーンが秀逸だな、と。
「セットも本物と同じとこにトイレがあるのか?」と聞いてそこに行ってみると、スタッフ同士が情事に及んでいるというシニカルなエピソード(まさに愛憎入り混じる屋敷だ(笑))、そしてその後セットの外のトイレに行くシモンを後ろから逆光で捉えたショットがとても良い。
セットでの撮影シーンは全体的に照明が平板であるだけに(しかしこれも前半部とのコントラストを強調しているのかもしれない)、この逆光のショットはとても印象に残る。

あるいは、前半部はカッティング・イン・アクション、あるいは人が通りすぎる瞬間にカットを割って寄る、といった技巧的な編集に加え、カメラワークは極めてなめらかな曲線を描いているのに対し、後半部の印象はまるで異なる。というのも、後半部は車に乗って電話をしているリュディヴィーヌ・サニエのシーンから始まり、これがフィックスのジャンプカットが多用された非常にザクザクとしたイメージであり、続いてサニエが、ブリスとマドの二人に偶然遭遇するシーンはワンショットの直線的なカメラワークで、丁度縦に歩くサニエと、横に歩く二人(ブリス、マド)が直角に交わる様が描かれる。さらに続いて、サニエが二人と別れてからおもむろに電話をかけるシーンも直線的な長回しで撮られている。









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