2015年1月5日月曜日

狂気の行方

監督:ウェルナー・ヘルツォーク

何よりも楽しい。これが大事だ、何よりも大事だ、と言うわけでもないのだが、まぁ難しいことは言わずに一回目はとりあえずこの映像を楽しんでればいいんじゃないか、って感じもする。
"映像の質"というものが何で決まるのかは知らないけど、この映画に出てくるいくつかの映像にはビックリした。
オートミールがコロコロ転がるのを超至近距離でフォローしたショット。劇場があるガラス張りの建物内の撮影、ホテルのロビーの撮影、演劇のリハーサルにおいて、人物だけに光が当たり、彼ら彼女らが暗幕に浮かび上がったように見える幻想的なショット、そしてマイケル・シャノンがバットと剣を持ってゆっくりと家の中に入ってくるショット。

最近は3Dでドキュメンタリーを撮ったりしている(未見)ヘルツォークは、そういえばこれのひとつ前の『バッド・ルーテナント』ではイグアナを至近距離で撮った荒っぽい映像を挿入したりしていたが、それでも『バッド・ルーテナント』というのはほとんどが、オーソドックスなカッチリとして構図を決めた優れたショットで構成された映画だったと思う。

一方でこの映画は、全編ほとんどが手持ちのハイビジョンカメラが、ゆっくりと漂うような動き方をする。フォーカスの定まらないカメラワーク、と言うと、この映画の「フォーカスの定まらない物語」を秀逸に表象してると言えてしまいそうだ。カメラ同様に、物語も、どこに行くのかわからない。というよりいつになったら物語が進むのだ、といった感じである。

男が母親を殺害して自宅に立てこもる。
その男の動機を探るべく、刑事が事件が起きた向いの家の住人、恋人、そして男が所属していた劇団の監督に話を聞く。それら人々の語りとともに、男自身の過去が回想として次々と挿入される。
どうやら男はペルーでおかしくなってしまったらしいことがわかる。
次第に回想の語りそのものも常軌を逸していく。突然人物が固まったり、何の説明もないまま場面が転換したり、、、
中毒性のある映像というのは、こういうのを言うのだろうか。

と、まぁものの見事に物語の焦点をぼやかし、イメージと戯れる巨匠ヘルツォークの優等生ぶりを味わえる、と言ったら生意気すぎるか。

しかしそれにしても、回想において、マイケル・シャノンがいよいよ母親を殺害しようかという一連のシーンの、見事な緊張感は、ヘルツォークが大変優れたストーリーテラーであることを十分に証明している。





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